グスタフ・クリムトが追い求めた美。世紀末のウィーンを象徴する美術世界

グスタフ・クリムトが追い求めた美。世紀末のウィーンを象徴する美術世界

グスタフ・クリムト(1862-1918)(Gustav Klimt)はオーストリアのウィーン近郊に生まれます。父エルンストはチェコのボヘミア地方出身の金銀細工師。クリムトは庶民階級に生まれ、2歳年下の弟エルンストと金属彫刻家の弟ゲオルグがおり、グスタフ・クリムトが21歳の時に、弟のエルンストと友人のフランツ・マッチュを加えた3人で「芸術家カンパニー」を設立しています。「芸術家カンパニー」では、彼らの師である装飾画家フェルディナント・ラウフベルガーから仕事を紹介され、クロアチアやウィーンの劇場、美術館などで装飾画を手がけています。 1892年、クリムト30歳の時に「芸術家カンパニー」は弟のエルンストが死をもって、10年間続いた活動を終了させます。その前年には、弟のエルンストはファッションブティックを経営するヘレーネ・フレーゲと結婚しています。ヘレーネ・フレーゲは主なクライアントに貴族を抱えており、クリムトもそこから肖像画の注文を受けていました。 この時代、画壇には「画家の王」と呼ばれたハンス・マカルト(Hans Makart)が中心として君臨していましたが、ハンス・マカルトの早すぎる死で終焉しますが、「芸術家の家」を意味する「キュンストラーハウス」という勢力がありました。そこのメンバーだったクリムトは、運営方針をめぐって対立し、1897年に他の仲間と共に脱退し、オーストリア芸術協会を設立します。これがウィーン分離派と言われており、クリムトはウィーン分離派の初代会長を務めます。 1898年に、分離派第1回の展覧会が開かれ、そのポスター(左図)を制作します。1905年、クリムトが43歳の時にウィーン分離派の内部で対立し、分裂するまでこの分離派の展覧会は8年間に渡り、23回開催されています。 ウィーン分離派が、分裂してから、翌年にクリムト一派はオーストリア美術連盟を結成、次の年に、あの有名なクリムトの代表作といえる「接吻(キス)」が制作されています。46歳の時の作品です。 1918年、55歳の時に、自宅で脳卒中の発作を起こして亡くなるまで、残した油彩作品は約200点です。あまり多くないのは、大作を描くのに時間がかかったということと、「接吻(キス)」で見られるような細密を極めた作品を描いたためです。死後、アトリエには未完の作品が多数残されていたということです。

ADB

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