漫画黎明期に、筋金入りの手塚オタクがいたとする。その男は、生きる姿勢がそのまま手塚の模倣である。先生の著作を大叢書のごとく棚一面に飾り立て、口を開けば手塚批評を並べ立て、そんな有様だから無論、自らもマンガ家を生業とするに至る。彼が筆を動かすとき、もうすっかり天才になりきっているのだ。ところが自意識が人皮をかぶったかのような男だから、口では決してファンを公言しない。それどころか、手塚なんて大したことねぇと、傑作の粗をまくし立てる。それがこの物語の中心人物、海徳光市(かいとくこういち)である。『チェイサー』は、宿痾の手塚オタクであるこの男が、ひたすら自らの劣等を見せつけられながら七転八倒するマンガ家漫画である。 いま「中心人物」と呼んだが、それが適切かどうか定かでない。主人公には違いないが、中心人物はどうも手塚治虫のような気がするのだ。 それはこういうことである。物語は3人の編集者に囲まれて締切と戦う「人気マンガ家」海徳が、手塚の天才性を示すエピソードを小耳に挟んではそれを真似し、模倣に失敗しては彼我の差に転げ回るコメディとしてスタートする(図1)。そもそも複数の編集を侍らせること自体、手塚スタイルの模倣であるし、手塚が編集に拉致されてカンヅメを強制されていると聞けば、自らもカンヅメ状態を嬉々として作り出し、ご丁寧に監禁場所からの逃走まで自作自演してみせる。このときは海徳8、手塚2くらいの割合で語られている。これなら海徳が中心に座っていると言って差し支えないだろう。 ところが2巻の終わりに差し掛かると、いつの間にか話題は一に手塚、二に手塚である。4巻の最初の話なんて手塚の批評しかしていない。時には主人公がマンガを描くことなどそっちのけで、テーブルを囲って議論に没頭する。もはや手塚公会議、あるいは手塚と漫画界のプロレス実況といった有様である(図2)。 全体の分量としては海徳4、手塚3、業界トーク3くらいの配分なのだが、手塚は常に話題の中心にいて、海徳の行動や議論は「手塚のアクションに対してどう出るか」という対応の結果に過ぎない。手塚はマンガ界の中心で自ら光り輝く恒星であり、海徳はその光を受けながら周囲を回る衛星というわけだ。
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